そこのキミ。人は、なぜ、つくるのか?
日々、私たちは生命が脈打ち呼吸するように何も考えずに何かをつくり続けている。
今日は、なぜそんなコトを繰り返しているのか自問自答してみようと思う。
まず最初に思いつくことは、「生きるため」だ。ヒトは衣食住がなければ生きてゆけない進化をしてしまった。身を守るために着るものをつくらなければならないし、食べ物を手に入れるために動物を獲るための道具や農作物をつくらなければならない、さらに厳しい自然から逃れ安息な棲家が必要だ。ヒトは一本の棒を持った瞬間から生きるための道具を獲得するように進化したのだ。しかし、それはヒトに限ったことではなく、動物や昆虫でも似たように巣をつくったりすることを見ると生命活動の一種なのだといってもいいのかもしれない。
生命活動といえば、恋人をつくり結婚して子供をつくる。なんてことも種を絶やさず「生命を維持するため」というのも一つの答えなのだろう。他にも、ミイラも永遠の生命や蘇りを信じてヒトのカタチを残すという創造行為もその表れなのかもしれない。でも、「生命を維持するために、私はいろんなモノゴトをつくっているんだ。」というには少し隔たりを感じてしまう、それは、生命を維持するだけではなく、ずいぶんと余分なものを付け加えてしまっているからだ。その余分なものを削り落とせばよいとは考えづらい。
ではその余分なものとはなんだろうか?ミイラを例にとれば、まず人間関係が思いつく、王様と平民の上下関係をモノで表さなければならないのだ、誰もが煌びやかな装飾と永遠の命を手に入れられたわけではなく社会の頂点のみがそれを手にしていたのである。上下関係に関わらず、平民同士でも自他の目覚めが余分なものをつくるきっかけになっていたのではないだろうか。
もう一つ考えられるのは神(自然感・死生観)との関係だ、人間社会には常に人智を超えたところに神がいた、その神と「つながるため」につくらなければならないモノがあったのだ。そのモノは神を象徴するに留まらず、社会をまとめる役割、ヒトと神とつなげる役割、自分と内なる自分をつなげる役割、を担っていたのだ。
今日の結論として
「生きるために」物質的に満たされるために。「つながるために」心が満たされるために。さらにそれらが「維持」されるためにつくっているのだ。つまり、生命は「生きのびる」ためにつくらなければならないのだ。
どうだろうか?