世界は音

翌日。ライブに来てくれた人から
「余韻はありますか?」と訊かれた。
その時すでに、静寂は掻き消されていた…。
でも、それはそれでいい。
「個人が問われているのだ…」

『よい方向に向かうためには、意識の変革が必要である、そのために私は、人に伝える努力をしている。』多くの人がそのような意思表明をしている。しかし何十年も前にこのように書かれた本を読んでいると虚しさがこみ上げてくる。「なにも変わっていないどころか、悪化しているだけではないか?」結局のところ『意識の変革を求める』なんてことは、独りよがりのマスターベーションにすぎにのだ。では、何かを変える為にはなにをしたらよいのだろうか?政治か?教育か?娯楽か?情報か?モノづくりか?どこから手をつけたらよいのだろう?何かを変える為には誰に伝えたらよいのだろうか?家族?周りの人?問題意識や興味を持っている人?権力者?大衆?市民?その人たちは自分の思い通りに動いてくれるのだろうか?
『個人が問われている時代だ。』このようなことを言う人もいる。今の私はコチラの言い分の方がシックリくる。

先日、「太陽光発電音響装置計画(Solar project in garden)」の第三回目のプレゼンテーションを行った。電気と音を軸にした大崎leとういうスペースだ。誘ってくれたのは、中田粥さん。ふとしたきっかけで知り合ったのだが、彼がブッキングしている『悟性・超Nakedダシ 』というイベントだ(意味シンなタイトルだ!)。お客さんは、音楽家や電気装置をつくっている人たち。自分がやっているコトの解説と実際に音をだしての演奏(?)をおこなった。

数日前から読んでいた本に何度も出てくる「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」禅の問いである。心はその言葉に支配されていた。演奏で注意したのは、音が出るまでと音が消えた後の静寂を意識することと空間に流れている音との調和だけ。昨年の大失敗から、新たに改造したり付け足した機材は不安なく動いてくれて、出したい音を瞬時に出すことも、ある程度できるようになって、この時点では最高の出来だったのではないか?(自画ジーサン笑)と思う。

もう、這々の体である日常。『意識の変革を求める』なんて余裕は無い。死に行く日々の中で『個』としての生命をまっとうできるのか?もはや世界はそこまで追い込まれているのだ。

そこのキミ。
「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」
世界は音―ナーダ・ブラフマー

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