山をのぼる感覚

モノづくりは、登山に似たところがある。登山は、どんなルートを辿っても最終的に行き着くピークは一地点にすぎない、しかし、山に挑戦するときには、ルートやスタイルを自らが選択し、そして自らの計画に基づいて行動し、状況によっては変更をその場で判断し、ピークを踏んで安全に下山するまでが登山なのである。

同じ山でも、極めた登山家は、あえて難しい岩壁を選び、軽量化されたシンプルな装備で自分の力を信じてピークを目指す。また、実力はそこそこのパーティーは、安全を第一にリスクの少ないコースを選択し、充実した装備を荷揚げし、チームワークでピークを目指すのだ、どう行動しピークを踏むのか?その計画自体に登山家の美意識は隠れていて、計画されたイメージどおりに、まるで一枚の絵を完成させるように一歩一歩行動することが登山の全てなのである。そして、その瞬間瞬間を登山家は感じるのであり、ピークを踏むことだけが喜びではないのだ。

モノづくりも同様に、世に出てゆくひとつのモノのために様々なルートやスタイルがある。単独行的な作業でつくり上げられる場合もあるが登山と同様に極められた一部の人の特権である。一般的に多くは、パーティーを組んでプロジェクトをこなしていくようなスタンスが必要なのだ。

日々、モノをつくるプロセスについて他人を観察するのだが、一点のピークを目指している感覚を持たない人がいるのに驚きを感じる。モノづくりが業務化してしまうと最高のモノをつくろうとする意識が低下してしまうのだ、そもそも、地図をみてピークがどこなのかを確認しない、どんなに迷走しようがお構いなし、日没も怖くはない、なにか仕事をしているふうの評価を得ることが最重要事項になってしまっているのだ。これではクライアントや生活者に何かが届くはずもない。

さらに、モノづくりを発注する側でもモノに興味がない人は、どのようにモノがつくり上げられるのかを学ばない。プロセスの中にどのような困難やリスクがあるのかを知ろうとしないのだ。そのような人が無線機を使ってメンバーにピークを踏むことだけを命令するような行為は遭難を誘発する。モノづくりの真の辛さを知らないのだから当たり前だ。

モノづくりは、つくられたモノに全てが表出している。様々な困難を克服してきたモノには、それなりの輝きがあると思うのだ。

そこのキミ。キミは山をのぼる覚悟ができているのかい?

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