「友へ」
311以降、自分の役割はなんだろうと悩む日々が続いています。
多くの言葉と絵で内的な整理する日々が続いています。
伝えられる情報が信じられない日々が続いています。
そして虚無感が広がってゆく日々が続いています。
やがてそんな日々でも「いきること」に
エネルギーが必要だということ気づきました。
空気も水も食べ物も花も虫けらも電気も石油も表現も労働も人にとって
全て、いきるために必要なエネルギーなのです。
今回のプロジェクトは、屋外で太陽光を使って音を出すというものです。タイコを叩くとかではダメなのかという質問がきそうですが、それではダメなのです。活動自体に祈りを織り込むことはプリミティブな打楽器の演奏に通じるのですが、今回は、現状への反発であり、未来への可能性を探るものなのです。
そもそも電気には夢やキラキラした美しさが含まれているのではないか?ならばそれを表現する方法はなにかないのか?ということから始まっています。エレキギターを鳴らしっぱなしでアンプの電源を切ると、電気が抜けていく一瞬になんともいえない音がします。そんな電気を見ることはできませんが、想像するに透明な水のようなものが細い金属の中を流れているような感じがします。
ダムをつくったり、うねうねの水路に流すことでリズムや波形ができてそれが音となり伝わってゆくのです。そんな電気を体感できるのがアナログ回路を使ったシンセサイザーだとピンときました。今から半世紀前に実用化された技術ですが、デジタルでは感じられない、いまだにその暖かな音色や響きやノイズの魅力は生き続けています。そして、私がやろうとしているのは、環境や自然と対比する音を存在させ、それを味わうサウンドインスタレーションを目指そうと思い立ちました。
オーガニック野菜を食べたければ、自分でつくるのが一番の近道です。スーパで売られている食品がどのような環境でどんな人々の手でつくられたがわからなくて不信感をいだかれる方も少なくないと思います、そんな時どうすればよいか?自分の手で土を耕し、種をまき、水をやり、自分が食べる分とまわりの人にお裾分けできるぐらいの収穫があるのが理想的と考えるのではないでしょうか、米、小麦、大豆に野菜に芋に豆にすべてを自分でつくるなどは普通に生活していたら不可能な話です、自分がつくれるものをつくるのが一番だと考えます。しかし、電気というものをそれに置き換えた時、同じことが出来るか?屋根いっぱいの太陽電池を用意しようとすると現状況では数百万の出費、電力会社との契約、あげくの果てに停電したら使えないというなんとも不思議なジレンマをかかえています。
そこでいろいろと考えました。まず全ての電気をなんとかしようなどという理想的なことは考えない、小さな庭で趣味や贅沢として使う純粋な電力を確保すること、次に友人などと遊ぶ時に「その電気使っていいよ」とお裾分け程度のおもいやりが保たれること、さらにサラリーマンの小遣い程度の出費でなんとかすること。以上をルールにしてプロジェクトをスタートしました。
「いのち」に興味のないヤツは、神経質に生きる人々を笑えばいい。と思います。
「いきること」とエネルギーは綿密な関係を持ちます。
私はそれを感じる「いきかた」がしたいだけなのです。
友よ見守ってくれてありがとう。