「エネルギー」

「エネルギー」

 

 

 なぜ、自分は生きていられるのか?その答えの一つにエネルギーがあるからといっても間違えではないでしょう。空気も水も食べ物も花も虫けらも電気も石油も表現も労働も人にとって全て、生きるために必要なエネルギーなのです。そして、社会や世界や宇宙はエネルギーに満ち溢れているとも感じらます。それは、美しく清らかでもあり、時には破壊を招くものでもあり、その両方を受けとめ生きているように感じます。

 

 あれからずいぶんと日が経ちました、当初の怒りは徐々に薄まり、エネルギーの美しさに心をひかれることが多くなりました。でも、生きるためのエネルギーのあやまちに気づき、方向転換をはかることは容易ではありません。そんな苛立ちを誰かにぶつけたところで何も変わらないことは分かっています、だからつくり続けるしか私には道がありません。

 

 エネルギーの循環に私たちが無理なく収まり、時に自然エネルギーの猛威に脅かされても、日々は無理のない生き方ができ、愛や美しさに満ちた世界を夢見ます。昨年ウグイスが鳴く森で太陽光発電音響装置から音を出してみました。目をつぶり耳に集中した時の恍惚感、今思うとそれは未来の出来事なのです。世界が変わり理想の未来が来るとしたらそれが日常になるのでしょう。

 

 ぜひ、これを読んでいる皆様にも未来を感じ欲しいと心から願います。朝は、鳥のさえずりを聴き、美味いご飯をいただき、愛ある人たちと生活し、お互いを認め合い、夜は静けさを感じて眠る。そんな生活を夢見ます。そんな未来に太陽光発電音響装置は最高の音を奏でることでしょう。計画は進行中です。

 

 

 

「すべてが良いわけではないのだ」

 

 

 太陽の恩恵は計り知ることはできません。むしろ太陽無しで我々が存在することなど考えられるでしょうか?自然はありのままにそこに在ります。人もまたしかりです。しかし多くの人々は“自然に在る”ことを忘れがちです、なんで生きているのか?この諸元的な問いは、哲学者や思想家、科学者たちの問いに留まらず、私たちに多くを問いかけてきます。太陽は生命の象徴です。世界中に太陽神がいます、それは命を育むために太陽を外すことができないからでしょう。同時に太陽が姿をかくす闇も死の象徴であり日々の繰り返しのなかで生と死は日常にあるといっても過言ではないでしょう。

 

 プロジェクトに参加してくれた舞踏家から聞いた話ですが、“心臓を太陽に向ける為に人は立ち上がったのではないか?”哺乳類は四足歩行では心臓を地面にむけ太陽を背負うかたちでいるのですが、太陽に心臓を近づけるように進化してきたというもの。生命の源である太陽に近づきたいという生命の欲求なのです。また別の舞踏家からは、“人はこうあるべきとかこうなければならぬというのではなく、ただちっぽけな肉の身(別名糞袋)が吹きっさらしの荒涼たる大地に佇んでいるだけであり、それは徹底的に個であり孤独であり何も恐るることに足らぬ宇宙の理として在ることでしかない。”このような発言は、常にカラダに意識を張り巡らしている舞踏家たちならではで、そのカラダがいかに在るのかを考えて日常を生きていることがうかがい知れます。

 

 太陽から獲られるエネルギーは、当然ですが太陽の生命活動から発せられているのです。おそらく太陽もやがて熱を失いその姿が永遠であるわけではありません、そう考えると地球上の枯渇型エネルギーを掘り起こすのと大差ないのかもしれません。あの日以降考えさせられたのは時間軸の問題です、私たちの文明社会にそのエネルギーが消失するまでに何十万年かかるという時間軸や何億年かけて蓄積してきた資源を何百年かで燃やし尽くすという時間軸を今日の24時間の営みに何の責任感も持たずに持ち込むことへの違和感なのです。子孫の代まで呪ってやる的な感覚はもちろん、人間のリズムからあまりにもかけ離れた時間軸に不安を覚えるのです。太陽光発電のよいところはその時間軸からは少しは解放されることにあります。

 

 思えば“電気”自体、私たちの生活には無かったものです、1878年にエジソンやスワンによって電灯が発明されてから人間の生活は自然のバランスを壊すほどの搾取をしながら発展を続けてきました、ようやく気づいて持続可能社会が叫ばれだしたのは100年後のことなのです。経済社会を考慮すると電気の無い社会に戻ることはおそらく難しいと一般的に考えられています。どちらかと言えばいかに自然へのダメージを減らしてゆくのかという方向です。

 

 太陽光発電を体験してみて、すべてを手放しで喜ぶことはできません。そのシステムを構築する中で、化石資源由来のプラスチックを使わなければならないし、パネルやバッテリーに使われている化学物質は環境に対して悪モノばかりなのです。エコの最先端のようないわれ方をしますが、本当にそうなのかは疑わしいものです。ただ、生命や自然の象徴である太陽と向き合い、人の営みを再構築するということに意義があるのです。すべての物事には、陰と陽、善と悪が宿っているといいます。冷静沈着に未来を設計してゆくことが求められる事で、世界中に太陽光パネルを並べることが目標ではないのです。間違ってはいけないのは太陽光発電=正義ではありません。常に矛盾を抱えていることを忘れてはいけないと思うのです。

 

「解放へ」

 

 

モノをつくる自由について考えているます。

それは手遅れになる前に考察を巡らす必要があるからです。

 

 

最近では「自由につくっていいよ!」という言葉に拒否反応を示す人がいるそうです、私は少しビックリするのです。それは自由のないモノづくりなんで考えられないからです。

 

 

荷が重いのでしょうか?プロセス学びをマニュアルどおりに進めることを好む人が増えているしょうか?基本を忠実に遂行することを重視しているのでしょうか?と探ってはみるもののそうでもないようなのです。どうやら、自分がどういうがモノが好みで、どのようなモノをつくりたいのかハッキリとしない、何か手探りでプロセスからつくってゆくコトがめんどくさい、変なところで自分を評価されたくない、それをヤルことで儲かるの?ということらしいのです。

 

 

自由なモノづくりとはどういうことなのでしょうか?

 

 

一見自由そうに見えたジャズやロック、その現代への歴史をひも解けば消費文化にぶつかります、なにかモヤモヤしたものに取り憑かれた若者たちの欲求不満の解消をエサに、求心力を高めたカリスマを市場に送り込み、いかに消費させるかというシステム構築の歴史でもあるのです。巨大産業には多くの人が関わり、次々に新商品が送り込まれました。そこにはある自由らしきものは偽物でありガンジガラメの経済的自由なのです。でも多くの人はアーティストが訴えかけてくるメッセージや快楽に酔いしれることを最優先しているのです。

 

 

このような現象をみれば、自由などというものはたいしたモノではないように感じてきます。自由などなくても消費文化が与えてくれる快楽で実は満足しているのだから。

 

 

音楽においても、「無いものをつくる」のではなく「有るものをつくる」という指向が強いのです、市場が有り、聴く人が有り、そこに笑顔が有るのです。自由にふらふらと新境地を探索するなど無駄なことはしたくないのでしょう。

 

 

しかし、よく考えれば「無いものをつくる」も「有るものをつくる」も実は目的は一つなのです、人の役ににたち、対価をえるというコトは同じで新市場を目指すか、既存市場を目指すかの差でしかありません。目くそ鼻くそなのです。今、私たちが考えなくてはいけないことは、欲求不満解消発散型の便利市場をつくることでも、巨大消費システムの破壊工作でもありません、まず第一にこれらから解放さるることを考えるべきなのです。

 

 

対立は対話に変え、ひとり一人がアイデアをとりあえず現実化し、自分が欲するモノは自分でつくり、行動できる仲間をひとりでも多く増やしてゆくことなのです。自由がまだそこにあるうちに解放へ向かうのです!机上の空論や思いだけでは何も生まれません、目の前で起こっているコトには目をつぶり右でも左でもない道無き道へ進まなくてはいけないのです、自分が踏み跡をつける最初に人間であっても恥じるべきではありません。たとえ引き返すことになっても、道は沢山あります…。今が封鎖される最後の瞬間かもしれないのです。明日には自由の一区画は奪われるかもしれないのです。オフグリッドです!解放に向かいましょう!

 

 

「友へ」

 

 

あの日以降、自分の役割はなんだろうと悩む日々が続いています。

多くの言葉と絵で音で内的な整理する日々が続いています。

伝えられる情報が信じられない日々が続いています。

そして虚無感が広がってゆく日々が続いています。

 

 

やがてそんな日々でも「いきること」に

エネルギーが必要だということ気づきました。

 

 

空気も水も食べ物も花も虫けらも電気も石油も表現も労働も人にとって

全て、いきるために必要なエネルギーなのです。

 

 

今回のプロジェクトは、屋外で太陽光を使って音を出すというものです。タイコを叩くとかではダメなのかという質問がきそうですが、それではダメなのです。 活動自体に祈りを織り込むことはプリミティブな打楽器の演奏に通じるのですが、今回は、現状への反発であり、未来への可能性を探るものなのです。

 

 

そもそも電気には夢やキラキラした美しさが含まれているのではないか?ならばそれを表現する方法はなにかないのか?ということから始まっています。エレキギターを鳴らしっぱなしでアンプの電源を切ると、電気が抜けていく一瞬になんともいえない音がします。そんな電気を見ることはできませんが、想像するに透明な水のようなものが細い金属の中を流れているような感じがします。ダムをつくったり、うねうねの水路に流すことでリズムや波形ができてそれが音となり伝わってゆくのです。そんな電気を体感できるのがアナログ回路を使った シンセサイザーだとピンときました。今から半世紀前に実用化された技術ですが、デジタルでは感じられない、いまだにその暖かな音色や響きやノイズの魅力は生き続けています。そして、私がやろうとしているのは、環境や自然と対比する音を存在させ、それを味わうサウンドインスタレーションを目指そうと思い立ちました。

 

 

オーガニック野菜を食べたければ、自分でつくるのが一番の近道です。スーパで売られている食品がどのような環境でどんな人々の手でつくられたがわからなくて不信感をいだかれる方も少なくないと思います、そんな時どうすればよいか?自分の手で土を耕し、種をまき、水をやり、自分が食べる分とまわりの人にお裾分けできるぐらいの収穫があるのが理想的と考えるのではないでしょうか、米、小麦、大豆に野菜に芋に豆にすべてを自分でつくるなどは普通に生活していたら 不可能な話です、自分がつくれるものをつくるのが一番だと考えます。しかし、電気というものをそれに置き換えた時、同じことが出来るか?屋根いっぱいの太陽電池を用意しようとすると現状況では数百万の出費、電力会社との契約、あげくの果てに停電したら使えないというなんとも不思議なジレンマをかかえています。

 

 

そこでいろいろと考えました。まず全ての電気をなんとかしようなどという理想的なことは考えない、小さな庭で趣味や贅沢として使う純粋な電力を確保するこ と、次に友人などと遊ぶ時に「その電気使っていいよ」とお裾分け程度のおもいやりが保たれること、さらにサラリーマンの小遣い程度の出費でなんとかすること。以上をルールにしてプロジェクトをスタートしました。

 

 

「いのち」に興味のないヤツは、

神経質に生きる人々を笑えばいい。と思います。

「いきること」とエネルギーは密な関係を持ちます。

私はそれを感じる「いきかた」がしたいだけなのです。

 

 

友よ見守ってくれてありがとう。

 

 

Modular Synthesizer. Ambient Noise by the solar system in a small garden.

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