北海道の旅から帰ってきました。
太陽光発電音響装置を持って様々な場所で音と遊ぶ旅でした。
自分にとってとても重要なことでも、人から見たらどうでもよいこと。
たぶんそんなコトのように感じます。

帰ってきて、旅について何かを書こうととりあえずPCに向かうものの、何かを書く必要があるのだろうか?という疑問がわいてきます。旅の途中でのコトが今日につながっていない…、そんな空しさを感じているのです。

言葉を交わした多くの人が生き方や現状を憂い、何か突破口なようなものに惑わされています。交わす言葉の内容より、その人が放つ一言一言にリズムがありキラキラした瞳を投げかけられたり、うつむき加減で静かに言葉を伝えてきたり、うまい言葉が見つからないまま煮え切らない感じであったり、それぞれのリズムで会話しているのです。もともと答えを探しているわけでもないのです。見にきてくれた友人にもブログで読んでいるより声を出して説明して、その場で音をだした方が多くのことが伝わるとの感想をいただきました。言葉ではなく気でつながっている、だから今は、あえて黙っていたい…。そんな気分なのです。

友人がくれた言葉です。

『”自然”てのはこういうことだよな、たぶん。

太陽は我々人類に光り届けようと思って燦々と光線を放射しているのではない。
太陽はただ存在しているだけだ。
太陽に限らず、何も俺たちのためになんか存在していない。』

“太陽”って言葉を
“自然”や“自分”や“他人”や“音”に置き換えても言い得ていると思います。
僕らは、そこのある存在を静観し、美しき略奪を企んでいるのです。
そのことを知り、時に自分を許し偏屈に生きてゆくとしましょう。